■「日本建国小史」 飯島 紀(39回)
高円宮典子様と出雲大社千家国麿様のご成婚を祝って!
日本建国小史
日下国(ひのもとのくに)
福岡県遠賀川の流域は朝鮮との交流の古かった所で、その中心は飯塚市の立岩遺跡群である。この辺は元来ニギハヤヒとその子孫、物部一族の土地であった。魏志倭人伝に出てくる不弥(ふみ)国と考えられる。
一世紀頃ニギハヤヒは五部人(いつのともびと)即ち物部、笠縫、為奈、十市、弦田の五部族を引き連れて、遠賀川を下り、日本海周りで航海し、出雲を経て近畿の若狭湾に上陸した。そこから琵琶湖の東岸を通り、淀川を下り、河内地方に移動し、草香の地に「日の下」の国つまり日本国を建てたのである。そこで今でも日下と書いて、くさか、と読む。
実は爾雅(じが)という紀元前二世紀頃、前漢の儒学者たちが作った古典用語辞典には日下とは日の出る所をいい、その下の国を日下国という、とある。これを知っていたのであろう。
出雲王国
朝鮮には、北アジアから高句麗に伝わった太陽神信仰と熊をトーテムとする熊信仰があった。太陽神信仰は北九州に伝わったが、熊信仰は出雲に入り熊霊(カモス)信仰となり、熊野大神の信仰に変わった。熊が修行の末、超能力を得たという神話がある。
一世紀出雲はスサノオによって統括されていた。彼は南朝鮮新羅から鍛冶技術を持って来日し、神戸川、斐伊川を遡り、出雲の砂鉄地帯、須佐を占領していた。この砂鉄は酸化チタンを含まない極めて優れた鉄であった。
北九州の動き
二世紀にはニギハヤヒの弟ニニギの一族が立岩から筑後平野に入り込んだ。三輪町のヒノシタ(旭下)に移り国作りをした。
しかし歴史でいう高木の神の命令で天孫降臨の後、出雲と「国譲り」を談判させることとなる。そこでニニギは勾玉、剣、鏡の三種の神器を持ち、五伴緒(いつとものお)の五部族を引き連れ、高千穂の英彦山(ひこやま)に登り、日田(日高)を経て大分県京都郡行橋に出てきた。
ニギハヤヒが京都郡に居る間にタケミカヅチとフツヌシが出雲にゆき、伊那佐の浜でオオナムチ、つまり大国主と対峙した。国譲りは高木の神の予想通り事無く成立した。この時フツヌシにはスサノオが作った名剣フツノミタマが、そして大国主には甘木産の綾杉紋の広矛(ひろほこ)が贈呈されたという。
フツヌシはこの後、フツノミタマで国中を巡って、従わぬ者どもを平らげて、銅剣、銅矛を回収した。これが荒神山から発見された338本の銅剣、16本の銅矛だという実に巧くできた話がある。
神武の東征
ニニギ、又はホノニニギとニギハヤヒとは兄弟であって、父をオシホミミというが、日神アマテラスを信奉していたツングース族出身であったろうという。
ニニギの子がホアカリ、ホスセリ、ヒコホホデミであるがヒコホホデミは後述の神武天皇である。
安本美典は、神武天皇から安康天皇までの20代を一代各10年在位として計算しているが、その時期をプロットしてグラフを作ると、神武天皇の没年は190年になる。
この神武天皇は二世紀中頃九州豊の国から、遠賀川流域の物部族や沖の島の海上民族宗像氏の協力を得て、瀬戸内海経由で畿内に向かった。第二の東征である。ニギハヤヒはクサカの地でこれを聞いたが、己の劣勢を知り、国を神武に譲った。
神武天皇つまりイワレヒコは即位できたものの、磐余(いわれ)の地ではオオナムチ信仰のお蔭で孤独であった。神武亡き後カムヌナカワミミが第二代となる(没203年)。
邪馬台の東遷
この頃九州三輪地方の邪馬台国にいた女王が卑弥呼であった。しかし邪馬台国は隣国の伊都国ヒボコによって滅ぼされ、ヒミコは自殺する。247年のことである。その後ヒボコはヒミコの宗女トヨと内行花文鏡いわゆる、八咫(やた)の鏡とを捧持して、近畿に向かう。第三の東征である。播磨で孝安天皇の軍と衝突する。ヒボコはこれを排したが大和へは入らず、宇治川を渡って近江、若狭に向かった。若狭の豪族フトニと協力するためであった。その時、八咫の鏡とトヨをフトニに捧げた。そしてトヨはフトニの巫女ハヘイロネの養女と成った。
ヒボコ自身は大和に入れなかったが、フトニは遂に即位した第七代オオヤマトネコヒコ孝霊天皇だという。270年頃である。そして纏向(まきむく)の箸墓古墳の被葬者はヤマト、トトヒ、モモソヒメと言われるが、彼女こそトヨであったのだと大和岩雄が述べている。
この時点で邪馬台国は九州から近畿の大和に移動したと考えられる。トヨが女王の名で西晋に朝貢したのは266年であったから既に奈良纏向にいたのであろう。
「日本人とは誰か」(飯島 紀著)抜粋
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飯島 紀 記