その謎を解く前に略歴を簡単にご紹介します。
1984年4月 |
早稲田大学を卒業後三菱商事株式会社入社 大阪支社 繊維企画室配属 |
1984年10月 |
大阪支社 衣料製品第二部本配属 |
1987年9月 |
イタリア語学研修生でイタリアへ |
1988年9月 |
東京本店 アパレル第二部 |
1991年7月 |
イタリア三菱商事会社 生活産業部長 |
1998年7月 |
東京本店 アパレル部 |
2008年2月 |
エム・シー・ニット(株)出向(副社長) |
2010年4月 |
三菱商事ファッション(株)出向(執行役員) |
2011年4月 |
イタリア三菱商事会社 代表取締役社長 |
2018年4月 |
三菱商事株式会社 東京本店 人事部人材開発室 担当部長 |
2018年11月 |
一般財団法人日本繊維製品品質技術センター 参与 |
2019年6月 |
一般財団法人日本繊維製品品質技術センター 理事長 |
略歴を見ると3回イタリアへ赴任しています。
実はその間、在イタリア日本商工会議所会頭を2回務めていたといいます。(2013年度、2016年度)
その他、ミラノ日本人学校 理事(2011年〜2017年度)、ミラノ国際博覧会 日本館サポーター(2015年度)、文部科学省トビタテ留学JAPAN 選考委員(2018年4月〜9月)など、目覚ましい活躍をしています。
それでは、勲章受賞までの足跡をお聞きしていきましょう。
私が約束の時間に一般財団法人へ伺うと、すらっとした温和な表情の山中さんが理事長室で出迎えてくれました。
ソファーへ座り珈琲を頂きながらじっくりお話をお伺いしてきました。
芝を卒業して早稲田大学へ進学した頃は、アナウンサーになりたいと思っていたそうです。
海外で活躍するアナウンサーです。しかし、その為には専門学校へ通ったりアナウンサーの勉強もしたりしなければ採用は容易ではありません。しかし、後でご紹介しますが、山中さんは大学在学中夢中になってやっていたことがあります。
そんなこともあってか、アナウンサーを諦め海外で活躍できる商社志望に変わったとの事です。
いくつかの商社に合格し、父親とも相談の上選んだのが三菱商事でした。
三菱商事では最初に大阪支社の繊維企画室に配属になった訳ですが、自分の希望とは全く違っていたとの事です。しかし、この配属がイタリアへ、勲章へそして現在の理事長職へと繋がっていくとは、当然知る由もありませんでした。
大阪での仕事は、アパレル企業の依頼により、洋服を生産する仕事で、やりがいはあったのですが、国内取引が主で、海外へ行く機会は少なかったそうです。
入社3年目、社内に語学研修制度があるという事を知り、手をあげました。
繊維という事で、ファッションの先進国イタリアへ行きたいと思い、イタリア語研修生として応募したのです。
いくつかの関門を無事に通過し社内試験に合格、1987年9月、25歳の時に、イタリア語研修生として、単身1回目のイタリア赴任をすることになりました。
この時は独身でしたかとお尋ねすると、前年の6月に結婚したばかりとのこと。
何故結婚したばかりなのに単身での赴任かと疑問に思うと語学研修なので、日本語を使わない状況を作り出すため、会社が作った規定で一人イタリアへ行ったそうです。
当時まだ携帯電話は無く、小銭をもって電話局に行き、お金を入れながら日本にいる奥様へ電話をしていたそうです。
ペルージャ、フィレンツェ、ミラノと回り、1年3か月の語学研修を終えて帰国しました。
帰国後は、本店のアパレル第2部に配属されましたが、3年後にイタリア三菱商事会社生活産業部長として2回目のイタリア赴任となりました。
この時は、奥様と2人のお子様もご一緒に赴任したとの事です。
2回目のイタリア赴任は7年に及びイタリアでの生活も板についたようです。
1998年7月に帰国後は、東京本店アパレル部へ再度配属され、その後13年間に2度の出向も経験しましたが、2011年4月いよいよ3回目のイタリア赴任となるのでした。
この間もイタリア語の音楽をイアホーンで聞いていたり、イタリア人に語学の個人レッスンを受けたりしてイタリア語を磨いてきたと言います。
3回目のイタリア赴任を意識しての事ではなかったと思いますが、準備は万端だったのだと思います。
今度のイタリア赴任は、以前とは違いイタリア三菱商事会社の代表取締役社長としての赴任でした。
お子様はすでに成人し、3回目は奥様と2人で赴任したそうです。
2011年からの山中氏の活躍は目覚ましいものがあります。
山中氏がまず驚いたのが、ヴェネツィア大学との交流をしていた時に日本語学科があるという事を知り、そこで学ぶイタリア人学生の日本語レベルの高さでした。
しかし、それだけの語学能力がありながらイタリアでは就職先がないという事もショックでした。
Venezia大学にて学長(中央)副学長(学長の左)日本語学科長(学長の右)と。
日本語学科生(日本語学科には約1,600人が在籍している)
日本語学科の優秀な人材を何とか日本企業と結び付けられないかと、それからの山中氏は昼夜駆けずり回るのでした。
2013年、2016年と2度 在イタリア日本商工会議所会頭に選出された山中氏ですが、特に2016年の会頭時には、下記の様な文章を在イタリア日本商工会議所会員190社へ送る程の熱の入れようでした。
在イタリア日本商工会議所
会員企業の皆様(190社)
清涼の候、貴社益々ご清祥の事、心からお慶び申し上げます。
日頃から商工会活動に対して、多大なるご協力を賜り、御礼申し上げます。
さて、商工会では本年2016年に、下記二項目を目標に掲げております。
@ 賛助会員と、普通会員との更なる交流
A Ca’Foscari Venezia大学との協定締結
本日は、この内Aに関し、この協定書が両者間にてサインされましたことをご報告致します。
また、これにより、商工会会員の皆様は、2017年8月5日まで、無料にて同大学から、採用とインターンシップに関する学生並びに卒業生の紹介を無料で受けることが可能となります。
イタリアでは、同大学の他、Milano大学、Firenze大学、Napoli大学などに日本語学科がありますが、Ca’ Foscari Venezia大学は、歴史、授業数、レベルともイタリアNo.1となります。
毎年300人の学生が同科へ入学し、卒業までに平均2回、期間は1〜2年、日本に滞在して日本文化、習慣を学びます。
彼らの日本語レベルは相当高く、漢字・読み書きもほぼ問題無いレベルの学生が多くいます。
しかしご存知のように、大学を出てもすぐに職が見つかる事はほとんど無く、彼らの一番の夢である「在イタリアの日本企業」で勤める事は、大変難しいのが現実です。
一方でこのような学生たちが日本企業で採用されれば、日本人マネージメントとの間では日本語で意思疎通が出来ますし、彼らは母国語イタリア語にて営業・交渉・社内コミュニケーションする事が当該企業にとって強みになると思料します。
商工会活動と教育は、直接結びつくものではありませんが、まずはこうした大学があり、多くの「日本語を話すイタリア人」が存在する事を会員企業の皆様に
お知らせする事で、人的交流が始まり、その結果として日伊経済活動が発展すればとの思いでございます。
是非とも、御社での可能性を御検討戴ければ幸いであり、また現時点では可能性がなくとも、継続的にご留意戴きますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
2016年9月
在イタリア日本商工会議所
会頭 山中 毅 (イタリア三菱商事会社)
山中氏のそのような努力の甲斐があり、在職中25名の優秀なイタリア人の学生が日本企業への就職を果たしたとのことです。
2018年4月に帰国した山中氏は、三菱商事株式会社東京本店に復帰しますが、その7か月後に何と定年を待たずして早期退職をしてしまうのです。
理由は、今までの山中氏の功績を見てきた一般財団法人日本繊維製品品質技術センターの前理事長から「一緒に良い財団作りをしないか」と打診され、ご縁を大切にしたかった事、また、これまでの経験を活かし、財団職員と一緒にチャレンジしたいと思い、11月に参与として入社し、翌年の2019年6月理事長に推挙されるのでした。
その間、イタリアでは、山中氏が三菱商事株式会社を退職した2018年の12月に、赴任中の活躍が認められ、一介のサラリーマンとしては異例中の異例であるイタリア共和国大統領勲章 イタリア連帯の星 カヴァリエーレ賞が決定したのです。
芝の同窓生としても誇りになる出来事であると話を聞いて感動しました。
勲章について下記に少し解説をしておきます。
2019年11月6日に駐日イタリア大使公邸において勲章の伝達式が執り行われ、ジョルジョ・スタラーチェ駐日イタリア大使よりイタリア共和国セルジョ・マッタレッラ大統領からの「イタリア連帯の星」勲章「カヴァリエーレ賞」“Cavaliere dell’Ordine della Stella della Solidarieta Italiana ”の勲章が授与されました。
「イタリア連帯の星」勲章は、1947年に創立され、イタリア共和国大統領より授与される権威ある勲章です。イタリア経済・文化・芸術・科学・社会福祉等の各分野の紹介や発展において、イタリア共和国に多大な貢献をした外国人、またはイタリア国外在住イタリア人に授与されるものです。
今回の受章は、山中氏が約15年に亘り、日伊間の経済連携や人的交流の強化に努めたこと、2013年と2016年に、在イタリア日本商工会議所会頭に就任し、日本語を学ぶイタリア人大学生・卒業生に対して、在イタリア日本企業への就職の道を切り開くなど、国際貢献に大きな実績を挙げた事が評価されたものです。
受賞のことを本人が知るのは、一般財団法人日本繊維製品品質技術センターの理事長となった2019年10月のことです。
いきなり1本の電話がイタリア大使館からあり、今回の受賞が告げられたのです。
これは、本人もびっくりの出来事でした。
ジョルジョ・スタラーチェ駐日イタリア大使と。
その後、話は芝学園のことになったのですが、ここでもびっくりする出来事がありました。
山中氏は、在籍当時軟式野球部に所属していましたが、まず高校2年の時に
秋季都大会で優勝するのです。その後、大学へ進学しましたが、1年目は芝学園の軟式野球部のコーチ、2年目からは監督となり、1983年夏季都大会準優勝、秋季都大会優勝に母校を導いたのです。
現役時代そして監督として2度の都大会優勝を遂げ、母校芝学園に大きな貢献をしていたのです。
お借りした写真を見ながら解説していただきました。
@ 私の監督期間中の成績表です。監督退任後、素晴らしい思い出を忘れぬようにまとめたものです。大学1年(1980年)時は、前監督の補佐であり、正式な監督就任は1981年でした。この表は、1983年優勝メンバー(主力は80回)と共有しており、毎年1月の懇親会でもいつも話題にでます。
A 1983/9/18秋季都大会優勝時の写真です。実は、同年7月の夏季都大会で私は監督を引退し、就職活動に専念するはずでした。その都大会で決勝までいき、相手は強豪の早稲田実業。9回まで1-0で勝っており、あと3つアウトを取れば、芝高校史上初の全国大会(硬式で言えば甲子園)だったのですが、9回に追いつかれ、延長15回の末、敗戦しました。その後、80回生の何人かと話し、「もう一回、このメンバーで秋優勝を目指そう!」となりました。私が就職活動の時は若山君(写真:私の左側。76回:後任監督)にも助けてもらいながら、一丸となっての秋季優勝、関東大会出場でしたので、感無量でした。私にとって、軟式野球部の後輩たちは今でも大切な宝です。
B この写真は監督としての最後の試合。関東大会で惜しくも作新学院に敗れた試合でのベンチ前の円陣写真です。
C 4枚目は高校2年の私です。1978年秋、芝高史上初めて都大会で優勝し、
関東大会(於:神奈川県保土ヶ谷球場)に出場した時の写真です。
イタリアの勲章の話から芝学園の話までいろいろとお聞きしましたが、芝の縁があればこそ貴重な勲章も見せていただけたと感謝して別れました。
今後とも是非、山中氏には芝学園の後輩のため、同窓会のために尽力していただきたいと思いながら帰路につきました。
(文責65回三浦 尚城)
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