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その謎を解く前に略歴を簡単にご紹介します。
略歴を見ると3回イタリアへ赴任しています。 それでは、勲章受賞までの足跡をお聞きしていきましょう。 芝を卒業して早稲田大学へ進学した頃は、アナウンサーになりたいと思っていたそうです。 いくつかの商社に合格し、父親とも相談の上選んだのが三菱商事でした。 大阪での仕事は、アパレル企業の依頼により、洋服を生産する仕事で、やりがいはあったのですが、国内取引が主で、海外へ行く機会は少なかったそうです。 この時は独身でしたかとお尋ねすると、前年の6月に結婚したばかりとのこと。 帰国後は、本店のアパレル第2部に配属されましたが、3年後にイタリア三菱商事会社生活産業部長として2回目のイタリア赴任となりました。 1998年7月に帰国後は、東京本店アパレル部へ再度配属され、その後13年間に2度の出向も経験しましたが、2011年4月いよいよ3回目のイタリア赴任となるのでした。 3回目のイタリア赴任を意識しての事ではなかったと思いますが、準備は万端だったのだと思います。 2011年からの山中氏の活躍は目覚ましいものがあります。
日本語学科の優秀な人材を何とか日本企業と結び付けられないかと、それからの山中氏は昼夜駆けずり回るのでした。 2013年、2016年と2度 在イタリア日本商工会議所会頭に選出された山中氏ですが、特に2016年の会頭時には、下記の様な文章を在イタリア日本商工会議所会員190社へ送る程の熱の入れようでした。 在イタリア日本商工会議所 清涼の候、貴社益々ご清祥の事、心からお慶び申し上げます。 毎年300人の学生が同科へ入学し、卒業までに平均2回、期間は1〜2年、日本に滞在して日本文化、習慣を学びます。 しかしご存知のように、大学を出てもすぐに職が見つかる事はほとんど無く、彼らの一番の夢である「在イタリアの日本企業」で勤める事は、大変難しいのが現実です。 一方でこのような学生たちが日本企業で採用されれば、日本人マネージメントとの間では日本語で意思疎通が出来ますし、彼らは母国語イタリア語にて営業・交渉・社内コミュニケーションする事が当該企業にとって強みになると思料します。 商工会活動と教育は、直接結びつくものではありませんが、まずはこうした大学があり、多くの「日本語を話すイタリア人」が存在する事を会員企業の皆様に 山中氏のそのような努力の甲斐があり、在職中25名の優秀なイタリア人の学生が日本企業への就職を果たしたとのことです。 2018年4月に帰国した山中氏は、三菱商事株式会社東京本店に復帰しますが、その7か月後に何と定年を待たずして早期退職をしてしまうのです。 理由は、今までの山中氏の功績を見てきた一般財団法人日本繊維製品品質技術センターの前理事長から「一緒に良い財団作りをしないか」と打診され、ご縁を大切にしたかった事、また、これまでの経験を活かし、財団職員と一緒にチャレンジしたいと思い、11月に参与として入社し、翌年の2019年6月理事長に推挙されるのでした。 その間、イタリアでは、山中氏が三菱商事株式会社を退職した2018年の12月に、赴任中の活躍が認められ、一介のサラリーマンとしては異例中の異例であるイタリア共和国大統領勲章 イタリア連帯の星 カヴァリエーレ賞が決定したのです。 2019年11月6日に駐日イタリア大使公邸において勲章の伝達式が執り行われ、ジョルジョ・スタラーチェ駐日イタリア大使よりイタリア共和国セルジョ・マッタレッラ大統領からの「イタリア連帯の星」勲章「カヴァリエーレ賞」“Cavaliere dell’Ordine della Stella della Solidarieta Italiana ”の勲章が授与されました。 受賞のことを本人が知るのは、一般財団法人日本繊維製品品質技術センターの理事長となった2019年10月のことです。
その後、話は芝学園のことになったのですが、ここでもびっくりする出来事がありました。 山中氏は、在籍当時軟式野球部に所属していましたが、まず高校2年の時に お借りした写真を見ながら解説していただきました。 @ 私の監督期間中の成績表です。監督退任後、素晴らしい思い出を忘れぬようにまとめたものです。大学1年(1980年)時は、前監督の補佐であり、正式な監督就任は1981年でした。この表は、1983年優勝メンバー(主力は80回)と共有しており、毎年1月の懇親会でもいつも話題にでます。 A 1983/9/18秋季都大会優勝時の写真です。実は、同年7月の夏季都大会で私は監督を引退し、就職活動に専念するはずでした。その都大会で決勝までいき、相手は強豪の早稲田実業。9回まで1-0で勝っており、あと3つアウトを取れば、芝高校史上初の全国大会(硬式で言えば甲子園)だったのですが、9回に追いつかれ、延長15回の末、敗戦しました。その後、80回生の何人かと話し、「もう一回、このメンバーで秋優勝を目指そう!」となりました。私が就職活動の時は若山君(写真:私の左側。76回:後任監督)にも助けてもらいながら、一丸となっての秋季優勝、関東大会出場でしたので、感無量でした。私にとって、軟式野球部の後輩たちは今でも大切な宝です。 B この写真は監督としての最後の試合。関東大会で惜しくも作新学院に敗れた試合でのベンチ前の円陣写真です。 C 4枚目は高校2年の私です。1978年秋、芝高史上初めて都大会で優勝し、 イタリアの勲章の話から芝学園の話までいろいろとお聞きしましたが、芝の縁があればこそ貴重な勲章も見せていただけたと感謝して別れました。 (文責65回三浦 尚城)
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